陶晴賢 下剋上を生きた男の苛烈な生涯
第十七回 SAMURAIファイル 陶晴賢
日本が誇る錚々たる戦国武将たちの魅力。
外国人の目に我が国の英雄たちはどう映っているのか
家臣は、主君に忠誠を誓うもの。個人的には、これが誇り高き「侍」のかっこ良さであると思う。
しかし当然、そのような「侍」ばかりではない。さまざまな理由があるとは思うが、主君を裏切り、謀反を起こす「侍」もいる。
陶晴賢(すえ はるかた)。周防国(現在の山口県)の大名・大内義隆に仕え、大いに活躍。「吉田郡山城の戦い」では毛利軍の援軍の総大将として大勝利をおさめた。
しかし、その後、義隆は「第一次月山富田城の戦い」で大敗。多くの家臣や息子までもを失ってしまったため、戦に興味を示さなくなってしまう。戦う気力満々の晴賢と、そうでない義隆。二人の間に亀裂が入り、晴賢は謀反をおこし、義隆は自害する(大寧寺の変)。
これによって、晴賢は大内家の権力を握り、これで順風満帆かと思ったら、そうでもない・・・。
大内家の家臣の中には、晴賢のやり方に不満を持つものもいたらしい。その中の一人が、毛利元就。陶晴賢の最後の戦いとなる「厳島の戦い」では「今、厳島に攻められると困るんだよね」という嘘のウワサを流し、陶軍を厳島におびき寄せた元就。毛利軍の嘘を見破っていた家臣もいたのに、話を聞かなかった晴賢。陶軍20,000、毛利軍4,000。結局は、海からやってきた毛利元就、そして息子の吉川元春、小早川隆景の軍勢に挟み撃ちに合う。狭い厳島。周りは海。もう逃げられない。陶軍は大敗し、晴賢は自害した。
主君に謀反をおこした末の結末。「本能寺の変」の明智光秀と、なんだか少し重なってしまう。
毛利元就は、首実検の際、主君を裏切った晴賢の首を鞭(むち)で3回叩いたんだとか。晴賢は晴賢なりに一生懸命戦ったのだろうから、少し可愛そうな気もするが、侍の世界で「主君を裏切る」ということは、それだけ重い出来事なのだとも思う。
主君(リーダー)に対して、常に「YESマン」である必要はない。ときには、自分の夢を実現するために、野心を抱くことも必要だろう。でもやはり、裏切ったり、陥れたり…それは避けるべきだ。
誠実に、自分の実力で勝ち取る。これは、今の時代でも大切なことですね。
ちなみに、少し余談だが、厳島は神聖なる場所なので、戦いの時に流れた血が染み込んだ土は、削り取られ別の場所に運ばれたと言われている。
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